Daiji Kazumine
一峰 大二
伝説の少年雑誌「少年」「冒険王」に始まり、当時のすべての大手出版社で様々な連載をされていた一峰先生。
その一峰作品に触れ、育った人間はもしかすると心の中に皆、なにがしかの原風景を持つのではないだろうか。
一峰大二先生は1935年12月19日、東京は荒川区で誕生。
実家は酒屋さんで物心がつく頃から家族の目を盗んではこっそり倉庫のお酒を盗み飲みしていたという。
1953年。長じて漫画家になると心に決めるも父母の大反対にあい、勘当されるがそのまま家を飛び出し漫画家の道を歩む。
絵物語作家の岡友彦先生に師事をするも生活は苦しく、実兄がこっそりと一峰先生の下宿を訪ねてきては差し入れをしてくれ、それでなんとか食いつないでいたという。
(ちなみに8マンなどで著名な桑田次郎先生は同門の兄弟子にあたる)
1956年一峰先生は「からくり屋敷の秘密」でデビュー。
(デビュー時はてらだくにじ名義)
それから65年に及ぶ漫画家生活がスタートする。
その作品数は膨大であり、コミカライズ作品はもちろん、手掛けたジャンルはギャグマンガから時代劇、ホラーにミステリ、
ファンタジーからスポーツ、SF、絵本、などその他、枚挙にいとまがない。
2020年11月27日「生涯一兵卒」の言葉を貫き、84歳で惜しまれつつ永眠。
皆様におかれましては、このデジタルギャラリーの中で筆者が一峰先生に直接伺ったエピソードなども交え、
『一峰大二の世界』の第一弾として年代順に作品の紹介をさせていただきます。
文章内において先生に対する呼称が時々において変わりますが、私自身が館長としての視点または弟子としての視点などで変わっておりますことをご了承ください。
一峰大二という巨人の息遣い、その筆致を少しでも感じてもらえればこれに勝る喜びはありません。
佐佐木あつし
「なぞのからくり屋敷」(デビュー作)
1956年
「少年:痛快漫画ブック(光文社)」
夏の大増刊号付録B5判
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一峰先生とお酒の席などで話すとき、時折デビュー前の秘話をお話ししてくださる事が多々あった。
当時、若かりし頃の先生は、両親から勘当されていたため生活も苦しく、まともに着るものもなかった。
一番安い絣(かすり)の着物と手作りの下駄を履き、どこにでもオンボロ自転車に乗り、出かけて行っては出版社巡りをされていたという。
そんなある日、ピー・プロダクション創始者、漫画家で原作者のうしおそうじ先生に自分の原稿を見てもらいに行った時の話では、うしお先生の単行本とまるでよく似た構図、似たような話の作品を持ち込み、うしお先生に「ここまで真似られたら怒ることもできないね」とにこやかに笑われ、一峰先生がその絣姿で大変恐縮されたというような話などもあった。
デビュー後、華々しく数多くの連載をこなし、生涯現役を貫いた巨人の若き日の話はそれだけでも、まるでドラマのような光彩を放っている。
「黒い秘密兵器」
1963年
「原作。福本和也」
「少年マガジン(講談社)」
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言わずと知れた一峰野球漫画の金字塔。
当時、爆発的な人気だった魔球モノ(本作では魔の秘球)
実は『タイガーマスク』と同様で一峰先生は本作品のヒットの流れで『巨人の星』の執筆候補として依頼もあったが、過密スケジュールを理由に断られている。
連載中の原作の中で『主人公の椿が投げた球を見た観衆が「うおーーー!」と、球場を揺るがす大歓声を上げたそれは今までに見たこともない球だったのだ』と、だけ書かれたシナリオが来て、真っ青になった先生は担当編集者と二人、朝まで悩んでその誰も見たことがない球(秘球)を徹夜でフラフラになりながら作ったというエピソードが残されている。
人気の高さからアニメ化の話も持ち上がったが当時のアニメ技術では「秘球」を演出することは不可能であり、その話はお蔵入りになった。
一峰先生の生真面目さは漫画業界内でも有名であった。
作画スタイルもラフ、下書きまで細部にまでこだわり、時には下書きでもベタ部分(黒くぬるところ)をきっちり塗りこむほどであった。
この章では普段見れないラフ画や下書きを秀作と完成版を比較してご覧いただき、その裏側を覗いていただきたい。
1955年から1973年までの19年間は高度経済成長と呼ばれ
様々な技術革新が起こった。
漫画界では、手塚治虫先生を始めとして
石ノ森章太郎先生、藤子不二雄先生、赤塚不二夫先生、水木しげる先生、さいとう・たかを先生
などの名だたる漫画家たちが綺羅星のごとく現れ、一世を風靡していった。
当時の少年少女はこぞって漫画に飛びつき、次々と繰り広げられる物語のとりこになっていった。
漫画は鉄腕アトムのアニメ放送から特撮も合わせて漫画と連動しつつ一大ブームを巻き起こしていた。
恐ろしいことに当時、漫画家の住所など個人情報がファンレターのあて先として普通に雑誌の欄外に載せられており、ファンの子供たちがしばしば漫画家の仕事場を訪れ、サインを貰ったり、中には掲載済の生原稿をファンサービスの一環としてプレゼントされる子供も多かった。
一峰先生の原稿もそうした理由で現存してはいるものの、コマ単位で欠損していたり一部が紛失したりしている。
良くも悪くもおおらかな時代であった。
スペクトルマンは1971年から1972年にかけてフジテレビで放送された特撮ヒーローである。
企画製作はピー・プロダクション。
その創業者であるうしおそうじ先生が原作。
この作品以来、一峰先生はうしおそうじ作品を次々とコミカライズし黄金期を築く。
中でもスペクトルマンはその人気の高さもさることながら、一峰先生にとっても特に愛した作品であった。
一峰版スペクトルマンは1971年から秋田書店の週刊少年チャンピオンと冒険王、また講談社の
楽しい幼稚園などに連載されている。
当時の一峰先生は多忙を極め、テレビで放送されるスペクトルマンを見る暇もなかったため、後年スタッフたちがカラオケなどで歌う主題歌を聞いて、そんなかっこいい曲だったんですねと苦笑いしたエピソードが残されている。
本年、スペクトルマンは生誕50周年を記念して一峰大二先生とうしおそうじ先生/ピー・プロダクションの世界を今回、光臨アートギャラリーオープン記念の特別展として貴重な生原稿などをデジタル上ではありますが、ご鑑賞いただければ幸いです。
スペクトルマン
©ピープロダクション
怪傑ライオン丸
©ピープロダクション
風雲ライオン丸
©ピープロダクション
鉄人タイガーセブン
©ピープロダクション
電人ザボーガー
©ピープロダクション
一峰先生を漫画界の父と呼ぶ漫画家は多い
「僕はいろいろ考えることが好きでね」
と一峰先生は漫画の話になるとよく、そう話されていた。
現に2017年に約半世紀を超えて発表された新作、「電人アロー」も元は原子力で稼働していたという設定を、落雷を一瞬で蓄電する「超電動動力システム」に変え、体の表面も鉄の10倍の高度である炭素繊維に変更し協力にバージョンアップがなされている。
執筆開始当時、齢80歳を超え、資料集めも、パソコンでのネット検索などではなく昔ながらの取材、本やテレビ、映画などから得た知識と、ご本人の想像力だけで作られたという事実は驚きに値する。
そうした日々の鍛錬は先生が亡くなる直前まで続き、毎朝、8時には机の前に向かい、線の一本一本に魂を込めコツコツと制作を進められていた。
一峰先生は日本酒をこよなく愛された。
私たちスタッフや仲のいい漫画家仲間が先生の邸宅に呼ばれ共にお酒を酌み交わし、時には先生の自宅の庭先でバーベキューなども開催され、漫画談義に花を咲かせた。
先生はそれをとても楽しみにして下さり。
「僕は楽しいお酒が何よりも好きなんですよ」と大好きな日本酒を飲みながら、いつもの笑顔でたくさんのお話を聞かせてくださった。
時にはオリジナル新作のアイデアもご披露いただき次回作として考えておられた忍者漫画のアイデアを「よかったらだけど、これ是非描いてください」と筆者に対して大変光栄なお声がけもいただいた。
漫画をこよなく愛し漫画とともに生きた一峰先生。
今はきっと天国でも、今生では絶筆となってしまった電人アローの続きを描かれているに違いない。
光臨アートギャラリー初代館長 佐佐木あつし